2年間の終わり 終われない道

明けましておめでとうございます。




本日1/2(水)、タンザニアを離れます。
日本に着くのは明日1/3(木)。
(航空券の手配の関係で予定より1日早まることに。)




正直まだ帰る実感が沸かず、来週にはいつも通り村に
戻って生徒にまた会えるんじゃないかなという気分すら
感じます。



正直あまりまだ気持ちも整理できていないのですが、1つ
言えることはここまで私の文章に付き合っていただいた
皆様に本当に感謝ということです。




おもしろい文章も書けず、写真もほぼアップできず読みづらい
思いをさせたことと思いますが、みなさんと繋がっていられる
という感覚で精神的に救われていました、本当に。



タンザニアのいなかの村の情報を少しでもお届けできていたら
うれしいです。



題名にもある通り、私のタンザニアライフは一旦ここで終了しますが、
人生はまだまだ続くはずなので、何も終われない。



ここで感じた気持ち・思い・人間関係をいい意味でいつか活かせるよう、
頑張ります!!



2013年始まりましたね!皆様本当によいお年を!!



そして今まで本当に本当にありがとうございました!!!



                          完

バハティンバヤ バハティンズリ

”バハティンバヤ”



それはスワヒリ語で運が悪いということ。

村を離れる前の1週間の出来事。



①2年間使っていた携帯電話を落とす。
 今までためてきたタンザニア人友人の全データを失う。
 グッバイ携帯電話。




②謎の高熱発生。



③雷が私のうちに落ちる。それにより感電。電流がかなり私にまで
 流れた、とともに使っていたパソコンが作動不能に。。。
 グッバイパソコン。泣



④上の落雷によりソーラー電気も壊れる。電気はつかないわ、充電も
 できないわ、の状態に。
 グッバイソーラー。





とまあそんなわけでブログも書けない状況でした(現在は知人のPC借用中)。
バハティンバヤ、とはまさにこのこと。。。



最後の最後でチウングトゥワの洗礼を受けました。






”バハティンズリ”




それはスワヒリ語で運がよいということ。
実は先週金曜日が中学校の今年度の終了式でした。私は今週
から各種会議やら報告会が首都である関係で終了式とととも
に学校、そして村を去りました。



村を去る前日の木曜日、生徒&先生たちがそれぞれお別れ会
を開いてくれました。



これまでブログにても書かせていただいたとおり、1年半経過
したときから、この村にこれ以上いても生徒のためにはなって
も私の成長にはならないかなとは思っていました。


なので村を離れる心の準備も十分してきたつもりです。


しかしまあ、いざ離れるとなるとやはり、めーーーーちゃくちゃ
寂しいもので。



生徒・同僚の先生・家・学校すべてが愛おしく思えました。


色々あったけれど、いい生徒・いいタンザニア人同僚に恵まれた
という思いはずっと感じていたし、ほんとにそうだと思うんですね。




その意味において私はこれほどにないほどバハティンズリでした。





日本到着は1月3日、それまでにあと1回ブログ更新させていただき
ます!お付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。



【写真説明】
この半年間ほどずっと写真がアップできずにいましたが(ネット速度
のせい?)、やっとアップできました!



○1枚目:わがチウングトゥワ中学校の看板。
○2枚目:お別れ会後。1年生と。
○3枚目:同じくお別れ会後、3年生と。
○4枚目:卒業した4年生がわざわざ会いに来てくれた。

脱アルコールへの道のり

こんばんは。




知ってる方もいると思いますが、私は大のお酒好きです。




思い起こせば大学時代はこれでもかというくらいお酒を
飲みまくり、それはそれは数々の失敗をしました…。



社会人になってからもその癖はなおらず、誕生日の日も
多量のお酒を摂取し、騒いでいたのが思い出されます。


(3年前の今日、銀座の街中に不釣り合いにも大声出し
 ていた女を見た方、それは私です…。)




だがしかし!約2年前越してきた、某国の某村は電気がほぼ
ない関係から、冷えたビールが入手不可能だったわけですね。
(そりゃ当り前の話なんですが。)




その環境が原因で、この2年でお酒に対する耐性も、欲求も
随分減ってしまいました。
残念といいますか…、人間落ち着くものです(笑)



そして今日、この8年程の間で初、ノンアルコールでの誕生
日を村にて迎えております。
(この2年間で私も脱ビールっぱら、少しは達成しました)




アルコールはさておき、無事健康体で26歳を迎えられたこと
に感謝です!
タンザニアに住むという決断によってたくさんの方に心配・
迷惑をかけてきました。



そりゃそうですよね、日本からとてつもなく離れた土地、それも
アフリカ、それも電気も水もない村に住むなんて、聞いただけで
どんなところだって思いますよね。



心配をおしきってまでここに来た私の果たさなきゃいけない義務
は、無事に日本に帰国するということだと思っています。
なので!無事に年を重ねられたことに感謝です!





あと1カ月を切りましたよ〜。
最後まで気を抜かず、村での生活をかみしめます!

自分の気持ち備忘録

こんにちは!!


更新が遅くなってしまいました。

気づけば11月も残りわずかとなってきました。


私は、過ぎてしまえば全てをいい思い出に加工してしまう癖があるため、この
タイミングで今まで書いてこなかったことを書きます。


私はどちらかというと田舎より都会の生活のほうが好きです。



本当は、どちらかと言わなくても、不便でペースの遅い生活は大嫌いです。
つまりこの村での生活は好きではありません。


そのような性質ながらもここに住むことにしたのは、貧困国に住む貧困層の人々に
対する理解を広げたいとう気持ち(好奇心)が、上記の好き嫌いの気持ちよりも勝っ
ていたためです。


この2年間の自分の気持ちの流れを備忘録も兼ねて書きます。




【2年間の赴任期間における気持ちの流れ】

 ○赴任から半年:好奇心を満たすことだけを考えればこの期間だけで十分だった




 ○半年〜1年後:”日本人”という目線から”タンザニアに住む人”という
          目線を持つことができた。
          言いかえれば、日本ではこれはこういうものだという”日本
          だけのものさし”から、日本ではこうだけどタンザニアでは
          こうだというようにタンザニア人的な視点で物事を考える土壌
          ができた。

 
          と同時にこの時期は従来自分が想像してきた貧困層になにか
          したいんだ!そのためにはこうするべきなんだ!というある
          べき論に疑問を投げかけ、迷い始めた時期だった。
         


         
 ○1年〜1年半後:以前ブログにも書いたようにタンザニア人(大人)への否定
           から、受容&信頼する気持ちを持つことの重要さに気づく。

           と同時に、自分の行動も現地人化していった。
           (自分もタンザニア人の先生のような振る舞いを若干するよう
            になっていった。ここの先生として働くうえでは必要な適応
            ではあるが、日本人的ではない)

           この時期出会ったのが下記本、自分の目標を迷っているとき
           であったので彼女の本は実に衝撃的だった。
           

           ●ダンビサ・モヨ
           『援助じゃアフリカは発展しない』
           (英語名:「Dead Aid」)
            http://www.amazon.co.jp/%E6%8F%B4%E5%8A%A9%E3%81%98%E3%82%83%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AF%E7%99%BA%E5%B1%95%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84-%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%A8/dp/4492211888
            ↑
            ザンビア出身でハーバードの修士号、オックスフォードの博士号を持ち、
            世界銀行での勤務経験もあるという超エリートの著者。
            少々過激なところもあるけれど、被援助国出身者としての視点か
            ら記述するその内容は実におもしろい!




 ○1年半〜1年11カ月後(現在):心境の大きな変化はなし。しかし、タンザニ
                  ア人ものさしがどんどん大きくなっていった。
                
                   それに伴い、現地人化(さらに)進行。
                  
                   また、本来の自分の目標に対する見直しは
                   既に完了(1年7カ月後くらいに)し、新た
                   な進路を志すようになった(2012.10.7のブログ掲載)。






とまあざっくり書きましたが、自分の好奇心の充足・視野の広がり・それに伴う
目標の見直しだけにフォーカスするならば1年半年くらいの赴任で十分だったか
なとも思います。心境の大きな変化もなかったことだし。




何事も最後までやり遂げるのが素晴らしいとみんな言ったりするけれど、途中で
辞めるという選択肢を常に持っておきながら、続ける選択肢とはかりにかけて
重要なほうを選択していくほうが自分の行動にも責任が持てますよね。



新たな発見もさほどなかった1年半以降も私がこの場にいたのは、生徒の国家試験
が少なくとも11月まであったから。基本的には他己志向ですね(私には珍しく笑。)。



また、2年以上ここにいたら現地人化がさらに進んで日本では生きられないように
なる気がするのでこのタイミングで早く帰らねばと思います(笑)
(つまり、柔軟性・受容性と自分のやり方の忘却は紙一重だなあ、と)



とまあ長くなってしまいましたが、2年間いるうえで当初持っていた好奇心も満た
せたし、視野も広げてもらえたし、大事な学年の最後も見届けられたしいい時間を
過ごせました。



しかし!いい思い出だけで終わらせてしまうのは完全な虚構なので再度言いますが
村の生活はつらい、不便、暑い、単調の3重苦、いや4重苦くらいに感じてました。



とはいえ、苦労はその場を知ったものにしかわからない。嫌だったことも含め、
タンザニア庶民層の人々の苦労や庶民の感覚を感じれたことはきっとこれから
活かせるでしょう(とポジティブに考えます苦笑)。

現在の癒し

11月になり、私のタンザニア滞在も残すところあと2カ月を
切りました。


村での生活だけを考えるとあと1カ月半。
私の人生初、そして人生最後(であろう)村民生活ももうすぐ
終わりです。
私は生まれてからタンザニアに来るまで、名古屋と東京にしか
住んだことがないので自称シティガールのつもりでしたが、今
では完全なるビレッジガールです(あっもうガールの歳でも
ないか…)。



村民生活、修行の毎日でした。



・最重要事項であった水の確保問題(雨=神様だと思えた)
・電気がないことによる真っ暗闇との格闘(ヘッドライトの恩恵)
・虫との共同生活(おかげで現在ははえが何匹いても動じない)
・恐竜の存在目撃(実態はおそらく本当に巨大なとかげ)
・今にも壊れそうなバス達(実際に私の学校の前で以前爆発したよう…)
・そんなバスにぎゅうぎゅうづめにつみこまれる(人間でなく貨物とかす)




とまあまだまとめるには早いので回想はこの程度にしときますが、
本日嬉しかったことを1つ。




1年生の生徒で数学をとても頑張ってくれてる生徒が数名います。
その子達は1日に何回も職員室にきて私に質問しに来ます。問題
ももっともっとほしいと言ってもらいに来ます。


(通常「職員室=恐怖の場」であり、生徒はみんな行きたがらない。
 なぜなら他の先生もいるために、タイミングが悪い場合はそのまま
 パシリにされてしまったり、なにかと説教される可能性があるため。
 しかし彼女らはその壁を越えてわざわざ来るのですよ。)




なんと可愛いのでしょう。4年生が卒業して去ってしまった私の悲しさ
を埋めてくれているのです(笑)




その中の1人の女子生徒のお父さんが電気の修理工であり、調子の
悪い私の家のソーラー電気を本日見に来てくれたわけですが、


「うちの娘はほんとに先生を慕っている。もう来月には村を離れちゃう
 から自分のことを忘れちゃうんじゃないかと心配していたよ。」



「先生は来年いないからあの子を(もっと教師数が多い全寮制の学校へ)
 転校させることを考えてる。先生がいて指導を続けてくれるんだった
 らここの学校にずっと通わせるんだけどね。」



と話してくれたのです。



日々の生活で嬉しいと思うことって正直めったにないです(どこの環境でも
そうですかね)。が、上の言葉は本当に嬉しかったです。
その生徒もなんと可愛いんでしょう。



どなたか、養子縁組として15歳の外国人を娘にする方法を知ってる方いた
ら教えてください(冗談です笑)。

終了〜〜〜

何が終わったかと言うと、今まで2年弱教えてきた中学4年生
の卒業試験が終わったのです。この卒業試験は同時に高校への
入学試験でもあり、ヒジョーに大事な試験でした。



これに至るまでの道のりは長かった。
1年間数学の授業といった授業を受けてこなかった彼らを教え
始めたのが去年の2月。
そのときは、中学3年生ながらにして中学での大事なトピックを
ただの1つもわかっていないような状態でした。



数学を諦めてもおかしくないような環境のなか、諦めていた子も
もちろんいたけれど、私の指導のもと本気で頑張ってくれた生徒
数人の姿勢にどれだけ私がモチベーションをもらっていたかわか
りません。


目のなかに入れても痛くないとはまさにこのこと、本当に彼らは
可愛いんですよ。



しかしまあ数学力がその子達の点数に結びつくまでには非常に
時間がかかりました。
(小学校で発想力とかを培ってきてないからなのかな?日本の
 生徒よりは格段に数学レベルも発想力も応用力もうちの生徒
 は低かったです。)




以前5月のブログで模擬試験があったことを伝えましたがその
結果も予想以上に悪く、30人中1人しか合格点をとりません
でした。生徒の定着度の低さ、本番への不慣れさを露呈してく
れました。



それでも諦めず勉強してくれ、授業後も土日も彼らに指導する
日は続いていました。
学校の寮もしくは空き教室に今年上旬から住んでいた彼らが
朝5時から勉強する姿も、夜10時を過ぎてもまだ教室に明かり
を灯して勉強する姿も見てきました。




数学でもし不合格をとったなら、理系選択の彼らが高校に行ける
可能性はほぼなくなります。


たったの21点、この点数をとれれば合格であるのにこの点数の
壁がどーーれだけ高かったことか。



まだ結果も出ておらず、試験問題すら閲覧できていない状況なの
ですが生徒の反応としては半々。
どうだろうか…
結果は私が帰国して以降にしか出ません。


彼らの結果がよいことを願ってやみません。



彼らは試験が終了したのでもう学校には登校しません。
としたときに、私のここでのteaching業務は半分以上終わったような
もので、振り返ると、いい生徒に出会ってたなあということ。


生徒にも色々いて、ただ学校に来てぼーっとし、こちらが何を言っても
響かない生徒もいれば異性と付き合うことしか考えてない生徒、高校
なんて最初から目指してない子もたくさんいます(悲しいことに私の
学校にはそういった生徒のほうが多い…)。



が、過酷な環境のなか、自分の将来を努力でなんとかしようとする
生徒達に出会うことができて、彼らの将来を自分事のように重ね合わ
せられて、よかったな、と。


あと何年後かに少しでも時間ができたときには彼らのその後を訪ねに
タンザニアに来ることと思います。



そのときにまたブログも更新します(嘘です笑)。

劣悪環境によって変化した進路

とても間が空いてしまいました。




安否報告を兼ねたブログなのに、すみません!
病気等にはかかってません!元気です!!




10月になり日本は涼しくなってきたころなのでしょうか。
南半球に位置するタンザニアでは夏の到来を感じています。




実は日本帰国日が正式決定しました。
タンザニアでの2年間の任期を終了し、1/4(金)に日本に戻ります。



というわけでタンザニアでの生活はあと3カ月弱となりました。


今までブログでも紹介してきましたが、私はタンザニアでもどがつく田舎
の村に住んでいるため、日本では考えられないような生活環境、(言葉は
悪いですが)劣悪な環境で過ごしてきました。


いやあ、タフになりました(笑)



そんな中で過ごして、周りの貧困層の庶民感覚や、彼らと先進国に住む人々
との物差しの違い、というのも肌で感じとってきたつもりです。





話は若干飛びますが、私個人の大きな夢として、貧困層の人々の生活水準
向上、もしくは不平等是正に貢献したい、というのがあります。


2年前はその目的達成のための一番有効な手段は国際援助しかない、と信じ
てました。
そのため、タンザニアにおける任期を終了後は、大学院にて開発学(ざっくり
いえば国際援助のアプローチを研究する学問)を学んだ後、将来的に国連等
の開発援助団体で働けるようキャリアを積みたいと思ってました。



しかしながら、タンザニアで、いわゆる貧困層の人々の生活コミュニティー
交じって日々過ごすことで自分の価値観に変化が生まれました。


彼らを「助ける対象」とみなす必要はない、ということです。助けるだなんて
それはおごりであり勘違いであり、持続的な姿ではないです。

と同時に国際援助の一方的にメリットを供与するあり方に対する疑問も生まれ
ました(随分前のブログにも書きましたが)。



というわけで、今後は、一方通行の形態、フィードバックもアカウンタビリティ
も真のニーズ把握も十分になりきらない形ではなく、相互に利益を供与しあえる
持続的な形を目指したいと思っています。


  (国際援助を否定する気持ちは全くありません。
   ただ「貧困削減に対する唯一の手段=援助」とみなす考えには同意できなく
   なりました。
   何事にも事態の解決策は1つのみでなく、違った観点から取り組むことも
   必要だし、場合によっては色々なアプローチを組み合わせたほうが多くの
   効果を生むだろうなと期待しているため、それを学びたいという気持ちです。)



先に書いた夢達成に近づくためには、援助現場でなく、日本のビジネスの現場で
まず修業を積むことが必要だとみなしました。というわけで、帰国後は日本にて
働きます!
不安はないといったら嘘になりますが、決めたからにはやるしかないですね。

 
  (さらっと書きましたが、進路を変更するにあたり、一時期相当悩んでいました。
   今まで自分が目指していた援助業界というコースを変更することへの躊躇・怖さ、
   そのコースに向けて行ってきた準備全てを台無しにしてしまうもったいなさ、自分
   の優先順位はなにかということへの迷い等々が原因でした。 
   が、決めたことですっきりしました。覚悟を決めました。)




もう26歳も目前。ちゃんと落ち着きたい気持ちもあるんですが、果てしてそれは
いつになるんでしょうか(苦笑)


とはいえ、日本にてみなさんに会えるのを本当に楽しみにしています!
ぜひ私のこと思いだしてください!笑